雪野山歴史公園

ドローンの空撮写真

雪野山歴史公園の概要

 

山麓の古墳群や豊かな自然を活かした広さ2.8haの公園。山頂まで散策道が整備されている。グラウンドゴルフ、キャンプ、バ-ベキュ-など憩いの場所となっている。

 

所在地

滋賀県東近江市中羽田町・上羽田町 雪野山東側山麓

 

 

 

雪野山&瓶割山散策マップ(平田トレイル)

雪野山古墳

 

平成元年(1989年)9月、雪野山の山頂(308.8m)で竪穴式石室が未盗掘の状態で発見された。古墳は3世紀に築造され、滋賀県では最古の前方後円墳である。卑弥呼が中国から贈られたといわれる三角縁神獣鏡をはじめ、218点の出土品は国の重要文化財となっている。

 

*現在は埋め戻しされており見ることはできません

展望台

瓶割山城址

 

瓶割山は、上平木町と近江八幡市長光寺町・長福寺町の境界に位置し、標高234.5mの小高い山である。戦国期には長光寺城(別名、瓶割山城)が築かれていて、今も一部に石垣や井戸跡などが残っている。元亀元年(1570年)城主柴田勝家が六角承禎の軍勢と戦ったとき、将兵に水瓶の水を飲ませた後、その水瓶を割って士気を鼓舞させ大勝を得たことから、瓶割山と名付けられたといわれている。

西国三十三箇所観音霊場

 

昭和4年(1929年)瓶割山の東の一角に、世界平和・子孫繁栄等を祈願して、地元及び近郷有志の方々により、西国観音霊場として40体の石仏が安置された。5月の法要には子供の巡礼姿が見られ、参詣の人々で終日賑わいを見せている。

御澤神社

 

聖徳太子が農事奨励のため、荒地であった現在地一帯を開墾、その用水として3池(すみ池・白水池・にごり池)を造り、そのほとりに市杵嶋媛命を祀られた。この池が御澤神社のシンボルとなり、色々な伝説を生み出した。また湧出する水は、古来名水の一つといわれ、今も拝戴者が後を絶たない。5月になると「藤の花」で連日賑わいを見せている。

多聞院

 

天台宗安貴山勝善寺、通称多聞院といい、聖徳太子の創建と伝えられる。本堂の南側には鎌倉時代の立派な宝篋印塔が残されていて、往時の隆盛がうかがわれる。本尊の木造多聞天立像と、洞泉院(廃寺)の旧仏である木造十一面観音菩薩立像はともに平安後期の作である。

歌坂

 

雪野山山麓に平成5年(1993年)建立の歌碑がある。
「暮れにきと 告るそまこと降晴る 雪の野寺の 入相の鐘」平安中期の女流歌人和泉式部は、安妃山「鐘送り坂の峠」で雪野寺の鐘を聞き、この歌を詠じたとされ、通称歌坂といわれる。この坂は近江八幡市浄土寺町に通じ、葬送の道でもあった。

女坂

 

竜王町林から中羽田町に通ずる安吉山(雪野山)越えの小路である。伝えによると御澤神社の池に住む大蛇(竜)が美女に化け、御澤神社に参詣した小野時兼という人と契りを結んだが、後に時兼に別れを告げ、この坂を越えて平木の澤に帰ったことから「女坂」と称されたといわれる。また、雪野寺(竜王町)が栄えた頃の裏道として往来があり「女坂」と名付けられたともいわれる。

観音霊場巡り

 

観音霊場は、大正12年(1923年)、勝善寺多聞院の信徒でもあった福井氏が、有志をつのり、西国三十三ヵ所をかたちどった観音石像を多聞院の裏山に安置されたものである。羽田神社の前と、女坂分岐点に「すぐくわんおんみち」と記された道しるべが建っている。

赤穂浪士奥田孫太夫父子の墓

 

女坂の入口近くの山麓にあり、忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士のうち、奥田孫太夫とその養子・貞右衛門をまつる。事件より49年後、寛延3年(1750年)に当地に建てられた。建立者は、孫太夫の本家筋にあたる奥田元長・元統兄弟で、現在もその子孫にあたる中羽田町の奥田氏が管理されている。

八幡神社

 

当神社の社殿は創建(年代不詳、享保19年(1734年)社殿再建)以来雪野山の中腹に鎮座していたが、平成183月氏子の総意により同山麓に社殿を新築し遷宮した。
社殿が山の上にあったことから、古い山岳信仰の形態を伝えていると思われる故、社殿跡地に碑を建立し後世に伝える。

八幡社古墳群

 

八幡神社の参道わきに、山腹から山麓にかけての谷間に分布し、前方後円墳1基を含む総計17基があるとされている。6世紀後半から7世紀前半にかけて造られたものと推定され、山麓の12基が県指定史跡である。

後藤氏館跡

 

戦国時代の近江守護・佐々木六角氏の重臣、後藤但馬守賢豊父子の居館跡である。石垣・土塁・堀の一部が見られ、堅固な構えの中世武家屋敷の面影をとどめている。後藤氏は主君佐々木義弼に殺害され、佐々木六角の家臣らは、これに抗議し離反、世に言う「観音寺騒動」のもととなったといわれている。